昭和46年04月22日 朝の御理解
御理解 第61節
「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」
金光大神の信心の総てというか、金光大神の世界というか、私はそれをここで、金光大神に、いつまでもつきぬおかげを話にしておく、尽きぬおかげを話にしておくと仰せられる。その金光大神に、天地金乃神様がお伝えになられたと言う事の内容というか、又内容から生まれてくる結果というか、と言う様なものは、どう言う様なものであったかと。
天地の親神様から金光大神が、金光大神のおかげを受けて来られたことを書き残しておけと御指図があって、それを段々暇々に書き綴っておられます。
金光大神の自叙伝とでもいうべきものでしょうかね。御自分がおかげを受けられたことを克明にしるされてこられた。そしてある所まで筆を進めて参られてから、途中でね、どうしてこのようなことが出来たのであろうか、どうしてこのようなおかげを受けられることになったであろうかと、そのおかげを受けてお出られた実状を思われて、感涙なさっておられるところが、そこで筆を留めておられますね。どうしてこのようなことが起きてきたであろうかと。
時にそこに神様の御言葉が入っておるですね。「金光大神がかなしいのでない、神がかなしいのじゃ」ということをおっしゃっとられる。いわゆる、どうしてこの様な事が起きて来たであろうか、どうして言わば御自身無学の百姓と思うておられる。何も出来ん自分のところで、どうしてこんな有難い尊い道が開けて来たであろうかと、おかげを受けて来たことを述懐されて、思い出されて感極まって泣いておられる。ところがそれは、「金光大神がかなしいのではない」とこう仰せられる。
かなしいということは有難いの極致なのです、いわば困ったことになった時の悲しいと言う事ではない。天地の親神様が感動し、天地の親神様がどうしてこの様な事が起きて来たであろうかと言って感動なさり、感涙なさっておられる。だからもう金光大神と天地金乃神は、そこに一体、そこに金光大神の世界があると思う。又その金光大神の信心から、生まれて来るおかげの総てがそこにあると思う。
神様と金光大神の頼み頼まれる中から、どうしてこの様な事が、尽きぬおかげというものはね、そこから生れて来てる。限りなくおかげの受けられる話を、金光大神にしておくとおっしゃっとられる。その源はです、神様と金光大神の言わば願い合い、頼み合いとでも申しますか。いわゆる、金光大神と天地金乃神様の合作、それが現在の金光教だと先日申しましたですね。
その中から言わば筆舌に尽くされないもの、どうしてこのようなおかげが受けられるようになったであろうかと金光大神がその有難さに感涙しとられると。この感極まって泣いておられるのは、金光大神その方のことではない。神自身の喜びだと。嬉しいやら、かなしいやらという言葉になって来ておられる。いつまでも尽きぬおかげの原動力というか、源というか、そこから金光大神の天地の親神様から受けられる話というものは、尽きぬ話になっておる訳です。
昨日会津若松教会の先生が訪ねて見えられましてね。暫く、大体面接致しまして応接間で話を、「先生、時間がありませんので」甘木の教会に立寄らして頂きたいと急いでおられるようでした。それからまあ、十分か、十四、五分話をしている間に、「先生もう腹を決めました。九州へ参りまして、甘木の教会と合楽教会におかげ頂いて立寄らせて貰いたいと思いましたが、もう甘木行きはやめました」と。
「もうここで頂いたことで充分でございます」と、「まあ行っても、あちらの建物の素晴らしいのを見に行くようなことになりましょうから、今日はゆっくり先生の話を聞いて帰ります」と言うて帰られましたんですけどね。それをどう言う事から、そう言う事になって来たかと言うとね、私は甘木の初代は天地の親神様の御ものと言う事を、非常に大切になさった。もうすべてを御物として大事にされた。
それは丁度上野先生達が学院に入っておる時から、現在の今の今度学院から帰って来た人達も一緒に、二年間あちらで勉強なさった訳ですね。そんな関わり合いで見えたんですけれども、まあ九州の信心と言う事について、一つの魅力に感じて合楽に先に見えた訳です。それで勿論神様の御ものとして、御もの一切を大切に、天地の御恩恵によるものですからその大事にされたと。
私ども、やはり信心を頂かして貰うて有難いと思うけれども、とりわけここでは、天地の親神様の御恩恵というのを御事柄の中に、それを御恩恵として頂かして頂くという生き方が、私の生き方だという、まあすべての事に御の字を付けると言う事を少しお話したら、そのことがね、もうその中に金光大神の信心のすべてがあるという風に感じられたのじゃないでしょうか。まあそうでなかったら合楽の信心も、甘木の信心もその中にあると言う風に感じられたのではないでしょうか。
御もの御事柄、すべての事柄の中に。只いろんな問題が起きてくる、それを問題とせずに御事柄として、頂いて行くという生き方。だから金光大神が話を、天地の親神様から受けられた御教えを、しかもそれは尽きぬおかげの頂かれるお話を金光大神になさった。だから私共も、やはり尽きぬおかげの受けられるのを頂かなければならんのである。それはどう言う事かと言うと、金光大神と天地金乃神との間から。
言うならばどうしてこの様な事になったであろうかと言う事を、これは矢張り私にもそれが言えれると思うのですよ。この度の大祭を頂かして貰うて、私はもう余り疲れとりましたから、一寸夕方休ませて貰うた。どの位休んだじゃろうかと思うて、久富さんに聞かせて貰うたら、まあ一時間位ぐっすり休まれたようですよと。そのぐっすり休んでおるところへ、「先生御祈念の時間ですよ」と起こされたんです。
その時にです、普通なら大体もう何日間も疲れに 疲れて体の具合もあまり良くなかったですから、今夜御無礼しようかと言う位きつかったんですけどね、「あの、もう夜の御祈念の時間ですよと」言われた時に、この度の御大祭のおかげを頂いたことを御礼を申し上げねばならんと思うたとたんに、今まできつかったとか、眠かったとか、体の中の血が一新するように有難いものを感じたんです。
その晩、御大祭の晩、夜の御祈念に聞いて貰ったんですけど、「本当にお互いが、信心をする、お参りをする、お願いをする、お詫びをする、色々言うけどね、やはり何と言うても御礼参りが一番ばい」ちゅうてから、お話したことでした。その御礼も、只あの御大祭に拝まれる方が沢山拝まれたんですから、どうしてこの様な事が起きてくるようになったであろうかです、やはり。
私のような、何にも出来ない無学の、教祖は無学の百姓とおっしゃったが、私の方は無学の商人(あきんど)です。の私のところでどうしてこのような、沢山の方が助かるようになり、しかも御大祭と言えば、それこそもう夢のような御大祭が、奉仕されるようになったということが、どうしてこのようなことが起きて来たであろうかと、それこそ教祖様じゃないけれども、感涙にむせばなければおられないが、その感涙はです、私大坪総一郎の感涙ではない、天地金乃神様の感涙であると言っても良いと思う。
金光大神が段々自分の生い立ちの頃から筆を起こされて、神様の御指図のまにまに、自分の言うなら一代記のようなものをお書きになり続けられて、今日只今このようなおかげを受けて来ておる。おかげの道の開けてきておることを思はれて、どうしてこの様な事になってきたであろうかと、感涙にむせんでおられる。そこに天地の親神様が「金光大神その方が悲しいのではない、神が悲しいのだ」とおっしゃる。嬉しいやら、悲しいやら、詩人ならば、詩を作る人であるならば、詩の一つも作りたい。
絵描きならばこれを絵の一つにしたいという程の感動を見せておられる。どうしてこのようなことが起きてきたであろうかと。天地の親神様もどうしてこの様な有難いことになってきたであろうかと。両方が感動し合っておられる。ですから金光大神の信心の源というか、今日ここに頂いとります、尽きぬおかげというのはね、そこが源なのです。金光大神と天地の親神様は、その相仲から生れてきた感動と。
いわゆる[鐘が鳴るのか 撞木が鳴るか 鐘と撞木の合(あい)が鳴る]という、その合の音色が余りにも素晴らしさに、嬉しいやら楽しいやらと感動なさっておられる。神様と金光大神が。そこから金光大神に尽きぬおかげの頂けれる話を残しておくとこう言うておられた。その話のすべての大元が、私はこういう所からだとこう思う。もうここだと思う。その話を承りに承って、私が無学の商人であった、私がこの様なおかげを頂いて来た。そこで私は金光大神の尽きぬおかげを受けられた。
尽きぬおかげの話のどこを頂いたかというとです、甘木の初代が神様の御ものという自覚のもとに、御恩恵の御ものを御ものとして生かされたり、御礼を申し続けられて甘木の教会があるように、私はその御ものと同時に、御事柄を神様御恩恵の事柄として受けて、受け継がせて頂いて、今日の合楽がある。困ったこと、本当に難儀なことと言わなかったわけです。それは一見困ったこと、難儀なことありましたけれども、それを神様の御事柄として、私がそれを合掌して受けてきたと言う事になる。
その私がおかげを受けてきたことをです、皆さんに伝えておる。神心となりて丁寧に話していくことが真の道を踏んでいくのぞ。だから日々私がこのようにしておかげ受けてくること、過去におかげを受けてきたことを皆さんにこうやって毎朝皆さんに聞いて頂いとるということは、自分がおかげを受けてきたことを皆さんに伝えておる。それが素晴らしい丁寧に話をしていくのが真の道を踏んでいく。只おかげで私は真の道を踏んでいっていることになる。
そこで金光大神が教えたことを違わんように人に伝えて、真の信心をさせるのが神への御礼ぞ、これが神になるのぞとまで教えておられます。だから自分が神になるのぞと。神になっていく道を、ひたすら歩かせて頂いとることになる訳であります。神になりても神より上になると思うな。だからおかげを頂いてくれば来る程に、大元を辿らせて貰う。いわゆる金光大神の、そのような神様と。
金光大神の合から生れた音色というもの、を聞かせて貰う、聞き入れさせて貰うて、それも私の金光大神のその話のすべてではなくて、そのほんの一部。昨日、会津若松教会の先生に私が申しましたようにね。私はまだ最近教団の、動きというか、金光大神が中心になっておるからです、皆さんも頂かれる金光大神という、まあ金光大神の生きられ方、御あられ方というものが、金光大神を読ましてもらうと分りますわけですが。まだ金光大神には手が届かないと私は、読むのは何回も読んだです。
けれどもこれを皆さんに聞いてもらうところまで手が届いていない。二十年間この方、この教典一冊をみなさんに聞いてもらいよるけど、まだまだほんの一部しか説いとらんです私は。ですから私は、まだ自分自身が頂いておるのを、金光大神の今申しますように、そこんところだけしか頂いてないから、そこんところを私は金光大神の信心のすべてだと思い込ませて頂く程しに、頂いておるわけです。実を言うたら、そう言う事じゃないでしょうけれどね。
皆さんに聞いて貰っとるのでも、この二十年間説き続けたけど、まだまだ説き明かす程でないです。ですからまだ金光大神には手が届かない。金光大神というのは、金光大神のお道の聖書ともいうべきものでございます。ですからとても神より上になると思うなとは、金光大神より上になるなということです。教祖金光大神、ですから、千年万年経ったからというて、金光大神、生神金光大神のような方が、また後からも先からも現われようとは思われないという程しの素晴らしいお方ですから、教祖の神様は。
その教祖の神様の二十年間、言うならば一生懸命頂いて参りましたけれども、その金光大神の一部しか頂けてないと言う事。そこで私どもがおかげを頂かせて頂くと言う事の、いわゆる御事柄として、そのすべての上に御の字をつけさせて貰えれる信心を体得していくことそれだけでも、それを本当に自分の血肉にして行くために、日夜お互いに修行させて頂いとる訳であります。一昨日でしたかね。神様は私どもに、そうさせねばおかれんという、おかんという働きがある。
私共も、それをそうしなければおられんという心、そうさせなければおかれんという心、その心と心が一つになって、おかげを受けられると言った様な意味のことを聞いて頂いた時に、御理解を頂きながら、幾人かの方がそれを素晴らしい表現で、色々頂いとられました。中にも久富くにかさんが頂いておられますのが、その話を聞きながら、「命貰います」という言葉を頂かれたそうです。私は何かそれを聞いて身が、ずうんと致しました。今日の御理解の言わば一言で表現するならこのことだった。
神様はね私共に命を求めておられるのです。そこで私どもは、「命上げます」と言う事にならねばならん。そこからすべてが解決するといういわゆる尽きぬ、おかげの原動力がです。そこから生れて来る。いわゆる神の心に没入して行くと言う事が信心だと言う事になりますね。神様の御心の中に私どもが、没入した生活を信心生活と言う。と言う事は、神様もそうさせたい。私共もそうしたい、いわゆる神様に「命捧げます」と言う事になっている。神様も「命貰います」と言う事になられた。
そこから生れて来る音色と申しますかね。そこからもう全然予想もし得なかった、金光大神の御言葉を以てすると、どうしてこの様な事が起きて来たであろうかというおかげが展開して来る。私の場合でも同じことが言える。どうしてこの様な事が起きて来る様になったであろうかと。神様は私の命を求めておられる。私が命を捧げることになるということは、神様任せの生活に入ったと言う事なんです。それを三代金光様は、「氏子が神様任せなら、神様は氏子任せになる」と仰せられますからと。
神様が氏子任せになられる程しのおかげを展開して行かれることの為にです。どうしても神様は、神様任せになる神様を本位にした生活を求め給う訳なんです。それを私どもが、信心のわからない時は、結局神様本位でなくて、只自分だけが中心、自分だけが本位なのです。だから自分の願いが成就することのために、自分の思いが叶うことだけが信心のすべてのように思うている訳ですけども、信心が段々わかって来ると、そうではなくて自分の思いは捨てる。
それを我情を捨てるというのである。そして神の思いをわからして貰い、神の思いに没入して行く、それを言うならば神に命を捧げますと言う事になった。そこに神様は「命貰います」「命上げます」と言う、そこから生れて来るおかげというものが、尽きぬおかげになって来る。私どもが「どうぞ、どうぞ」とお願いをして生れてくるおかげというものは、もうその場限りのおかげなんだ、実を言うと。
けれどもそのおかげを頂いて、成程神様じゃなと分ったら、その神様の心が分らせて貰えれる信心にならせて頂かねばならん訳が分ります。金光大神の世界と言う、金光大神の信心のすべてというものは、それは限りがありませんけれども、その大源(おおみなもと)をたどらせて頂くと、どうしてこの様な事が起きてくるであろうかと、神様と金光大神が感涙し合うておられるところから、生れて来ておるのである。それは天地金乃神と金光大神とが一体となられて生れて来たもの。
だからそう言う事になって来る。そう言う事にならせられる世界。天地の親神様と金光大神のそのようなかかわり合い。そこで私どもと金光大神とのかかわり合いというものがです、「金光大神に命捧げます」と言う事にならして貰う。いわゆる金光大神に帰依すると言う事です。そこから生みなされて来るおかげが、尽きぬおかげであります。だからその尽きぬおかげに、私どもが触れさせて頂く為に、今日私が申しますところが分かって頂かなきゃならんことになる。
「金光大神いつまでも尽きぬおかげを」とあります。尽きぬおかげの頂けれる、その原動力になるものを、私どもが頂かなけりやいけない。そのために本気でひとつ、御ものを大事にさせて頂くことも大事、と同時に、御事柄としての頂き方をさして貰う。昨夜の御祈念に、後にみなさんにお話させて頂いたんですけど、昨日の朝お夢を頂いておったのを、昨夜御祈念させて頂いとる半ばで、ああ今朝こうゆうお夢を頂いとったということを頂いたんですよね。
それはどう言う事かというと、お夢の中にね、丁度スタンドバ-なんかにカウンタ-がありますね、腰掛けて飲む。そういうところにまあ二十人位のお相撲さんのお弟子さん、まだつるつる坊主のごとあるのもおりゃあ、まあざんぎり位のもおる。もう髪をちょんまげに結うとるのもおる。それが真裸で黒の褌をしめてね、そしてカウンタ-に腰掛けて何を頂いとるかと思いよったら、即席ラ-メンを頂いてるところを頂いた。お夢それで私はお夢の中にね。
これは即席ラ-メンじゃ力は出るまいと思いよるところで目が覚めたんです。 ここで修行生の方達がこれからも出来ることでしょう、それは矢張り本当に力を受けたいというのですよ。神様を信ずる力を受けたい。そしてその力を以て人の難儀が取次ぎ助けられる程しの力を養うて行きたいというのが、金光教の先生にでもなろうかと言う事になってくるですよ。ならこれは金光様の先生だけではない、お互い信心させて頂いておかげ頂くに於いても、矢張り力が欲しい。
力を頂かなけりゃ、お徳を受けなければというのが合楽の皆さんの願いでもあろうと思うのです。ところが食べておるのは即席ラ-メンなんです。これはもう私自身のことだと、だから皆さんにああ美味しかったと、皆さん言いよるけども、即席ラ-メン位しか与えとらんという感じですからね。皆さんもご承知のように、私は本当のこと頂いたことがないてすけれど、食べたことはないことはない。
この頃綾部さんことろでチャンコ鍋が出来たと言って鍋に一パイわけて頂いたことがあるけれど、まだまだ本当のチャンコ鍋とはあんなものじゃなかろうと、私は思うたんですけどね。だからラ-メンなんかじゃ、ラ-メンじゃないですね。チャンコ鍋じゃなからにゃいかん。あれにはもうスタミナ料理と言われとりますように、力の元がですね、あの食物の中にあるとこういう。それを合楽では、いわゆる、即席ラ-メンくらいを食べさせとる位ことだと。又皆さんも食べておると。
そこでチャンコ鍋の内の内容というものを、ひとつ工夫しなければいけない。魚も入っとれば肉も入っとる、野菜も入っとる、もうあらゆる、その力になる食物が一緒にごった煮にしてあるのがチャンコ鍋だそうですね。だからチャンコ鍋を頂かなければです、その力はつかん。もうラ-メン位じゃ、もう一時ばかりしよったら、またペコペコになる。そうじゃなかろうかと私は夢の中で思うた。
そこで私自身としてもです、もっともっと素晴らしいものを皆さんに頂いて貰えれる、内容を頂くと同時に、皆さんもそれに甘んじることなくです、私の尽きぬ話の中から、又は御事柄の中から、ああこれこそ肉じゃろうか、これこそ魚じゃなかろうか、これこそ自分の力になるものじゃなかろうかという頂き方が、もっと厳密に出来なければならんのじゃなかろうか。只お腹が空いてる、即席ラ-メン頂いて、ああおいしかったというだけで、余り力にもならないと言う様なね。
事ではいけないという風に、昨夕は皆さんに聞いて頂いたんですけどね。いわゆるチャンコ鍋の内容をお互いもう少し研究しなければならないと思うんです 力が出来ませんとね、御事柄として受けられんのです。どうしてこげん難儀なことが起きてくるじゃろうかと言う言になる。そのどうしてこの様な言が起きて来るであろうかと言う様な事柄を、御事柄として受けれるようにならして頂いたその先にです、どうしてこの様に有難い言に成って来たであろうかと言う様な。
尽きぬおかげの始まりはそこから始まるとこう思うんです。しかもその尽きぬおかげを頂いて、それを神心となりて丁寧に話をして行くのが神様へお礼にもなりゃ、真の道を踏んでいくことにもなりゃ、又神へなるのぞとまでいうところまでなってくるのですから、私どもが、おかげを受けなきゃならん。そのおかげは尽きぬおかげでなければならん。只簡単な目先のことが一つ二つのおかげが成就しただけ。
は駄目だと言ったものを、今日六十一節から私は感じます。尽きぬおかげの頂けれる話を、金光大神に残しておられる。だから金光大神が言おうとなさること、金光大神が受けてくれよと思われること、それにはお互いが一生懸命になり合わなければ出来ることじゃないと、為には「お前の命をくれよ」とこう言はれる。「命捧げます」と言う言になる。命貰おう、命上げましょうと言う言にならなければならん。
それをもう少し、そう厳しくでなくて、内容は同じですよ。けども、氏子が神様任せならということになるのです。「氏子が神様任せなら神様もまた氏子任せになると仰せられますから」と三代金光様は教えておられます。だからそこのところを頂いて行くことから、いよいよ金光大神の世界が、いよいよ有難い、このように有難い世界であることをわからせて頂くことが出来ると思うのです。
どうぞ。